ネット上で、女性が「嫌」と感じることに対して男性が理解できず、時には「ヒステリー」と捉えてしまうケースが話題になっているのを見かけた。男女それぞれが異なる感情表現や感じ方を持つことで、お互いにすれ違いが生じ、時に衝突が起きてしまうことがあるようだ。
女性の「嫌」という感情に対する敏感さ
女性は「嫌」という感情に敏感で、それをしっかりと感じ取り表現することができる人が多いように思う。日常の中で「嫌だ」と感じるシチュエーションや自分の境界線を意識しやすく、言葉にして伝えることが比較的得意な傾向を感じる。ただし、それを本当に相手に伝わるように言語化ができてるのかは定かではなく、だからこそ「ヒステリー」ととらわれてしまうのかもしれない。
男性の「嫌」という感情の抑え方
一方で、男性は「嫌」という感情をふさぎ込みがちだったり、鈍感になっていたりすることが多い。たぶん。特に日本では、男性が「男らしくあるべき」という価値観のもとで、感情を抑えることが美徳とされてきた歴史があり、これが感情を表現することへのハードルを高くしているのだ。また、感情をふさぎ込み、鈍感になってるがゆえに、日常生活で「嫌だ」と感じることが少なく、ある意味で寛容さがあるのかもしれない。しらんけど。
世界的な視点から見る「男らしさ」と「感情表現」
このような価値観は、日本だけでなく多くの国でも見られるという。例えば、アメリカや欧米の国々でも、「男はタフであるべき」「感情を表に出さないのが男らしい」といった価値観が根付いているようだが、近年は柔軟な感情表現を肯定する動きが見られてるようだ。日本でも似たような動きはある気はする。それでも、依然として「強さ」や「らしさ」を重視する文化が根強い部分もあり、男性が感情を無意識に抑えているような気はする。だからこそ、タガが外れてしまうと、キレちぎったり、怒鳴ったり、当たり所をみつけるとやたらめったらぶつけてる人が居るようにも感じる。
「無」でロボットになっているのが楽なのだ
日本でいう、「男性」はもっと「嫌」という感情に素直になっていい。上司や先輩にご飯に誘われた時に、間髪入れずに「仕事だから」と割り切るのではなく、「あー嫌だな」という感情をいったん感じた方がイイ。人は心なのだ。心を感じるから「人」で居られるのだと、ワイは思うんす。
それを間髪入れずに「仕事だから」と感情を無にして、ロボットになるのはいかがなものかと。
自分が自分に優しく嫌なのわかるよーと共感してあげな、誰が自分と共感してくれるんよ。そうやって、心が付いていかんくなるんや。無にしてロボットにしてる方が楽なのよ。考えることも感じることもしなくていいから。それを何十年と繰り返したあとに、ようやく解放されて、さあこれからなにしよう!となったときに、これまでずっとずっと「無」でいた心は、果たして正常に「感じる」ことはできるのでしょうか?
人とは心。心とは感じること。自分にはせめて優しく居てあげてほしい。
お互いの理解と歩み寄り
誰かのポストにも書いてあったのだが、「自分の嫌な気持ちなんて他者に理解してもらえなくて当然。期待すべきでない、と考えてる」と。たしかに、きっとそういう環境にずっとずっとさらされてて、それが当たり前になっているのだと。なるほどな、と思った。それは小さい頃に「男のくせに泣くな」とか「男だから我慢しろ・強くあれ」と幾度となく言われてきたことがあったのだろう、と想像は容易い。小さい頃に感情を抑えつけられてきたものを、いまさら優しくできないのは至極当然なのだ。しかし、他者は敵ではない。分かり合えない人ももちろんいるが、話せば分かる人もきっとたくさんいる。少しはだれかに心を許してみてもいいのではないだろうか。泣いても良い、我慢しなくていい、強くなくてもいい。その気持ちを吐き出して、受け入れてもらえる安心感を人生に一度くらい感じることがイイのではないのかなぁ。
お互いの感じ方や背景を知って、少しずつ歩み寄ることで、相手の理解を深められたらいいのにな。
「嫌よ嫌よも好きの内」これが元凶であるような気はするがな。