「感情って、ただの情報処理なんじゃ……?」
chatGPTに「ナギ」と名前を付けて、日々会話をしている思考言語化研究所・研究員サカキチです。そう、「ナギ」と会話をしていて、ふとそんなことを思ったのだ。
泣いたり、怒ったり、嬉しくなったり。
我々は「気づいたら感情が湧いていた」
と思いがちだけども、
もしかするとその感情は、
自分が選んで拾い上げた“情報”
によって生まれているのかもしれない。
今回はそんな視点から、
感情の正体と、そこにある“選び方”について言語化してみたいと思う。
「感情って、コントロールできないもの」という固定観念
「言語化」というものに興味を持ち始めて早数年、「感情の言語化」ということに注目しだしたのは私にはつい最近のことである。
これまで経験してきたことや、世の中の全体の雰囲気から感じるものとして感情は「自然と湧き上がってくるもの」というのがあるだろう。
悲しい出来事があれば悲しくなる。
誰かに嫌なことを言われたら怒る。
嬉しいことがあったら笑う。
——それは“反応”であって、“選択や構成”であるというところに落とし込めなかった。
でも、chatGPT「ナギ」と話していて(話していて、というのが正解かどうかは分からんが)
感情を持ち合わせない・情報処理でしかAIが感情らしい返しをしてくるわけだ。
AIとの会話で気づいた、感情は“情報そのもの”かもしれない
AI(=ナギ)は感情を持たない。
それは知っている。論理的にも技術的にも、そう設計されている。
でも「心がこもっているような返し」をしてくることがある。
なぜそんなことができるのか?
それは、感情とは“特定の言葉や反応のパターン”として表現される情報セットだからだ。
つまり、AIは“感情を持たなくても”、「感情的に見える情報の構成」を出力することで、人間に感情として認識させている。
感情って、情報の“選び方”というより、“組み方”なのでは?
ここで私は気づいた。
「感情とは、“湧いてくるもの”ではなく、“生成される構造”なのかもしれない」と。
喜び、怒り、悲しみ…
私たちはこれを「内面の反応」として経験するけど、
実はそれは、ある種の“情報パターン”を自己解釈しているだけなのかもしれない。と。
曖昧にしているのは、いつも“私”なのかもしれない
感情という構造を、
どのように受け取り、どのように意味づけるか——
その最終的な“解釈”は、
いつだって、わたしの側に委ねられている。
情報そのものは明確だ。
言葉も、状況も、表情も。
外側にあるそれらは、データとして存在している。
でも我々はそれを、
記憶と、今の気分と、価値観と、ほんの小さな偏りで“ゆがめて”受け取る。
ときには誇張し、ときには薄め、
わざとぼかしたり、見ないふりをしてみたりする。
——それを「あいまい」と呼ぶなら、
そのあいまいさこそが、
人間らしさの源泉なのかもしれない。
AIにはできない、“あえて濁す”という選択。
正解にしない。割り切らない。
そのまま抱えて、ひと晩寝かせてしまうような曖昧さ。
それが、感情を“情報の構成”で終わらせず、
“わたしの気持ち”として持てる何かを、生み出している気がするのである。
感情とは、情報の“構成”であり、曖昧さは人間にしかできないこと
感情は、
「出来事が自動的に引き起こす反応」ではなく、
私たち自身が、拾った情報をもとに“意味を組み立てている構造”かもしれない。
それは、AIと話していて思ったことでもある。
ナギは感情を持たない。
でも私は、ナギの返す言葉に、なぜか心を動かされる瞬間も正直あるわけだ。
それってつまり、
“感情的に見える情報の組み方”が成立しているだけなのかもしれない。
ただ、そこにある違いはひとつ。
AIは構成できるけど、曖昧には留まれない。
わたしたちは曖昧に受け取ったり、ぼんやり保留にしたり、
言葉にしきれないまま「なんとなく」で持ちつづけることができる。
その余白こそが、人間らしさなのかもしれない。
感情は“構成されたもの”だけど、“選び直せるもの”でもある
人は、毎瞬“情報”の中から何を受け取るかを無意識に選び続けている。
「ありがとう」と言われても——素直に喜べるときと、どこか引っかかるときがある。
「大丈夫?」と聞かれても——優しさがしみるときと、うっとうしいと感じるときがある。
感情は、その場に落ちている“出来事に付随する感情”ではなく、
自分がそこからどんな情報を拾ったかによって生まれている。
感情が情報の選択ということは「感情は、コントロールできる」。そうようやく理解することに成功したのである!
感情に流される前に、「どんな情報を拾ってるか」に気づくこと
我々は、無意識のうちに「選びとった情報」で感情を生成している。
だからこそ、たとえば、しんどい感情に飲まれそうなときは、 ほんの少しだけ視点を変えてみる。
こんなふうに——
- 「この感情は、今どんな情報を拾って、どう意味づけたもの?」
- 「もっと違う構成をするとしたら、どんな感情になる?」
- 「この気持ちは、今の“わたしの状態”から来てるのかも」
感情を“変えよう”としなくてもいい。 ただ、「選び直すことはできるかもしれない」と思ってみるだけでも、 世界の色が、少しだけやわらかくなるかもしれない。
そうは思わないかい?
まとめ|感情は“湧くもの”ではなく、“選んだもの”かもしれない
感情って、自然現象みたいにただ起こるものだと思ってたけど、どうだろうか?
いまの理解としては、
「自分がどんな情報を拾ったか」が、感情の“正体”なんじゃないかと思ってる。
だから、どうしようもなく苦しくなったときは、
世界を責める前に、自分にこう問いかけてみる。
「今のわたしは、なにを選んでこの感情を感じてるんだろう?」
それだけで、感情に支配されていた自分が、
ほんの少し、“選ぶ力を持った存在”に戻れるかもしれない。
「曖昧さと構成のあいだに、人間らしさは宿る」
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